第1特集:3月12日からの半年をふり返る
- 被害と復興の様子
- 2011.09.12 Monday
栄村復興への歩みNo.76(通算第110号)
9月12日 特集:震災から半年
今日9月12日で震災からちょうど半年が経過しました。
今日は、この半年をふり返り、今、私たちが復興にむけてどういう状況(局面)にあるのかを考えてみたいと思います。
一口に「半年」といっても、ずいぶんと長い時間ですので、5つの時期に区分してみました。この時期区分は、〈私たちの暮らしがどうなっているか〉という視点によるもので、私個人の考えを示すものです。
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<直後期(避難期)>(3月12日〜3月20日)
3月12日午前3時59分に地震発生。午前11時、秋山地区を除く全村に避難指示が出され、人びとは7ヶ所の避難所に移りました。うち、小滝集落は雪崩等で道が塞がれ、ヘリコプターでの避難でした。
この時期、15日、16日とそれぞれ1時間の一時帰宅、そして18日からは半日の帰宅が許されましたが、避難所にいる時間はとくにすることもなく、配給される弁当を食べ、昼間はTVや新聞を見るというだけの暮らしでした。3日目くらいから温泉に行けるようになったことは体を休め、精神的緊張をほぐすうえで非常に大きな意味がありました。

役場避難所前での住民自身による炊き出し(3月13日)
この時期は消防団の活動が特筆されます。各集落の警戒にあたり、一時帰宅の付添も行うなど、文字通り不眠不休の活動でした。

森集落の消防団(3月15日)

一時帰宅(青倉集落)(3月15日)

送迎バスで温泉へ(3月18日
いま、振りかえるとき、果たして「全村避難」の措置が必要であったのか、また、10日間近くもの避難が必要であったのか、厳密に総括する必要があると思われます。
家屋の損傷は軽微で自宅で暮らせる人が多い集落の方が多かった。被害が激しかった集 落でも、たとえば小滝集落など、高齢者の肉体的精神的負担が大きい移動避難ではなく、集落内の安全な家屋への避難の方が望ましかったと思われるのです。
たしかに、余震による被害拡大の心配などはありましたが、「全村避難」はどちらかといえば、行政サイド(単に村だけでなく国や県)のいわば「中央集権」的な掌握の必要性が優先されているように感じられます。一人一人の村民の存在、暮らしをもっと大事にする視点が大事だと思うのです。
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<応急復旧期>(3月21日〜4月初旬)
帰宅が許可され、人びとは家の片付け=「家で暮らせる状態にする」ことに全力をあげました。ただし、帰宅不可能で避難所に留まらざるをえない人もあり、人びとの間の相違が顕在化し始めた時期でもあります。
この時期は災害ボランティアの支援が不可欠でした。家の片付けの人手が足らないということもありますが、ある意味でそれ以上に重要なのは、家屋・室内の惨状を目にし、自力では片付けの気力が出てこないという問題があります。逆にいえば、いわゆる災害ボランティアはこの時期に集中して展開されるべきものであり、この期間を超えてズルズルとやるべきものではないという問題があることに留意する必要があると思います。

活動の合間に住民と談笑するボランティア(3月24日)
この段階で、水道等、ライフラインの応急復旧もほぼ完了し、4月中旬にはほとんどの集落で、家が居住不能である場合を除いて、自宅での生活が可能になりました。
この時期の最中、4月を前にして勤め人は通常の勤務に復帰しました。

家人自ら応急復旧作業を行ない、
炬燵でお茶飲みもできるようになった(3月30日)
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<通常生活の回復と農作業への取り組み>(4月中旬〜6月上旬)
栄村の被災の1つの特徴は〈春を目前にした時期の被災〉であったことです。冬を目前に地震に見舞われた中越大震災とは対照的でした。
「これから大雪に直面する」のではないという意味ではよかったのですが、逆に、春の農作業が「待ったなし」で目前に迫っているという意味では大変でした。人びとは、雪消えの進行と共に、農作業に全力で取り組み、田植えまで脇目もふらず、一気に突っ走りました。平年よりも雪消えが遅かっただけに、田起こし−代かき−田植えの一連の作業は日程的に厳しく、田植え完了が6月中旬過ぎになった集落もありました。

苗箱ふせ(箕作)(4月26日)

田植え(北野)(6月5日)
高齢者などは雪消えの進行と共に、蕗の薹、コゴミ等の山菜採りに出かけ、春の恵みを楽しみました。こういうことは人びとが震災から立ち直り、いわば通常の暮らしに戻っていくうえで非常に大きな意味をもったといえます。
この時期でいちばん大きな事柄は、雪消えによって農地の被害が全面的にあきらかになってきたことです。その中で、小滝集落の人たちや役場災害第2係の人たちが信州大学木村和弘教授グループの支援を得ながら、被害の全貌の徹底調査にあたり、復旧の方針形成に力を発揮したことは特筆すべきことです。

木村先生は雪が残る3月下旬から田んぼの被害調査を開始(3月25日)

クラックは耕盤の下まで及んでいる(小滝)(5月18日)
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<落ち着きの回復と疲れの噴出>(6月中下旬〜8月)
6月に入ると、5日の大久保集落を皮切りとし、26日の青倉集落を最後として、さまざまな集落でタケノコ狩りの集まりが催されました。タケノコ狩りは、そのように呼ぶかどうかは別として、「田休み」としての意味を持っています。田植えが終わり、みんなが一息つくのです。
集落行事・タケノコ狩りが震災から約3ヶ月の時期に多くの集落でできたことは非常に重要な意味をもっています。私は震災復興の大きな目標、「復興できた」といえるメルクマールが、「みんなが集落の戻り、暮らせる」ことにあると考えています。どの集落も、今年のタケノコ狩りの行事に格別の思いを込められました。「みんなが集落に戻り、暮らす」ことの第一歩が実現されたのです。

青倉のタケノコ狩り(6月26日)
この時期のいま1つのメルクマールは、家に戻れない人が仮設住宅に入居できたことです。私自身、6月18日に仮設住宅に入居しました。私はいまでも、外出先から仮設住宅の自分の部屋に戻るとき、「家に帰る」とはなかなか口にできません。仮設は仮設であって、「わが家」ではないのです。しかし、ひとまず自分の日常生活の拠点が確保できたことの意味は大きかった。とくに直前まで避難所に留まらざるをえなかった人にとってはなおさらでしょう。集落毎の設置が実現されなかったことは残念ですが、仮設住宅入居で一段落がついたことはあきらかです。
さて、そのように落ち着くと、異常な緊張状態が弛み、疲れがドッと出てくるものです。私自身は7月末〜8月に体調を崩しましたが、ホッと一息ついて、体調の不調を感じた人は多いようです。

仮設住宅(8月1日)
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<復旧・復興の遅れへの焦りの現出>(9月〜)
夏が終わり、秋の気配が感じとられると同時に、豪雪の地・栄村では〈冬〉が迫ってきていることを強く意識し始めざるをえなくなります。仮設住宅では、除雪をどうするのかを具体的に検討しないと安心して秋の深まり−冬の接近を迎えられません。また、冬の道路除雪のことを考えると、道路の復旧が進んでいないことに苛立ちを覚えます。さらに、まだ稲刈りも済んではいませんが、田んぼについて「来年こそは田植えができるように、雪が来る前に田んぼの復旧工事が終えられるのか」も心配になってきます。
その一方で、家屋の解体だけは「11月末までに終わらせる」とのことで結論を出すことを迫られています。

なかなか直らない道路(青倉)(9月9日)
茅葺き民家が解体されてしまった(6月13日)
人びとの中に新たな焦燥感、心配が増大していることは否めない事実であると思います。いちばん大きな問題は、「村はどうなるのか?」をめぐって、長期の見通し(ビジョン)があきらかにされていないことにあります。
行政との協働が不可欠ですが、私たち一人一人が考え、発言し、むらの復興ビジョンをつくっていくことが急務になっていると思います。

みんなで議論を(復興ビジョン懇談会)(6月18日)
9月12日 特集:震災から半年
今日9月12日で震災からちょうど半年が経過しました。
今日は、この半年をふり返り、今、私たちが復興にむけてどういう状況(局面)にあるのかを考えてみたいと思います。
一口に「半年」といっても、ずいぶんと長い時間ですので、5つの時期に区分してみました。この時期区分は、〈私たちの暮らしがどうなっているか〉という視点によるもので、私個人の考えを示すものです。
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<直後期(避難期)>(3月12日〜3月20日)
3月12日午前3時59分に地震発生。午前11時、秋山地区を除く全村に避難指示が出され、人びとは7ヶ所の避難所に移りました。うち、小滝集落は雪崩等で道が塞がれ、ヘリコプターでの避難でした。
この時期、15日、16日とそれぞれ1時間の一時帰宅、そして18日からは半日の帰宅が許されましたが、避難所にいる時間はとくにすることもなく、配給される弁当を食べ、昼間はTVや新聞を見るというだけの暮らしでした。3日目くらいから温泉に行けるようになったことは体を休め、精神的緊張をほぐすうえで非常に大きな意味がありました。

役場避難所前での住民自身による炊き出し(3月13日)
この時期は消防団の活動が特筆されます。各集落の警戒にあたり、一時帰宅の付添も行うなど、文字通り不眠不休の活動でした。

森集落の消防団(3月15日)

一時帰宅(青倉集落)(3月15日)

送迎バスで温泉へ(3月18日
いま、振りかえるとき、果たして「全村避難」の措置が必要であったのか、また、10日間近くもの避難が必要であったのか、厳密に総括する必要があると思われます。
家屋の損傷は軽微で自宅で暮らせる人が多い集落の方が多かった。被害が激しかった集 落でも、たとえば小滝集落など、高齢者の肉体的精神的負担が大きい移動避難ではなく、集落内の安全な家屋への避難の方が望ましかったと思われるのです。
たしかに、余震による被害拡大の心配などはありましたが、「全村避難」はどちらかといえば、行政サイド(単に村だけでなく国や県)のいわば「中央集権」的な掌握の必要性が優先されているように感じられます。一人一人の村民の存在、暮らしをもっと大事にする視点が大事だと思うのです。
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<応急復旧期>(3月21日〜4月初旬)
帰宅が許可され、人びとは家の片付け=「家で暮らせる状態にする」ことに全力をあげました。ただし、帰宅不可能で避難所に留まらざるをえない人もあり、人びとの間の相違が顕在化し始めた時期でもあります。
この時期は災害ボランティアの支援が不可欠でした。家の片付けの人手が足らないということもありますが、ある意味でそれ以上に重要なのは、家屋・室内の惨状を目にし、自力では片付けの気力が出てこないという問題があります。逆にいえば、いわゆる災害ボランティアはこの時期に集中して展開されるべきものであり、この期間を超えてズルズルとやるべきものではないという問題があることに留意する必要があると思います。

活動の合間に住民と談笑するボランティア(3月24日)
この段階で、水道等、ライフラインの応急復旧もほぼ完了し、4月中旬にはほとんどの集落で、家が居住不能である場合を除いて、自宅での生活が可能になりました。
この時期の最中、4月を前にして勤め人は通常の勤務に復帰しました。

家人自ら応急復旧作業を行ない、
炬燵でお茶飲みもできるようになった(3月30日)
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<通常生活の回復と農作業への取り組み>(4月中旬〜6月上旬)
栄村の被災の1つの特徴は〈春を目前にした時期の被災〉であったことです。冬を目前に地震に見舞われた中越大震災とは対照的でした。
「これから大雪に直面する」のではないという意味ではよかったのですが、逆に、春の農作業が「待ったなし」で目前に迫っているという意味では大変でした。人びとは、雪消えの進行と共に、農作業に全力で取り組み、田植えまで脇目もふらず、一気に突っ走りました。平年よりも雪消えが遅かっただけに、田起こし−代かき−田植えの一連の作業は日程的に厳しく、田植え完了が6月中旬過ぎになった集落もありました。

苗箱ふせ(箕作)(4月26日)

田植え(北野)(6月5日)
高齢者などは雪消えの進行と共に、蕗の薹、コゴミ等の山菜採りに出かけ、春の恵みを楽しみました。こういうことは人びとが震災から立ち直り、いわば通常の暮らしに戻っていくうえで非常に大きな意味をもったといえます。
この時期でいちばん大きな事柄は、雪消えによって農地の被害が全面的にあきらかになってきたことです。その中で、小滝集落の人たちや役場災害第2係の人たちが信州大学木村和弘教授グループの支援を得ながら、被害の全貌の徹底調査にあたり、復旧の方針形成に力を発揮したことは特筆すべきことです。

木村先生は雪が残る3月下旬から田んぼの被害調査を開始(3月25日)

クラックは耕盤の下まで及んでいる(小滝)(5月18日)
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<落ち着きの回復と疲れの噴出>(6月中下旬〜8月)
6月に入ると、5日の大久保集落を皮切りとし、26日の青倉集落を最後として、さまざまな集落でタケノコ狩りの集まりが催されました。タケノコ狩りは、そのように呼ぶかどうかは別として、「田休み」としての意味を持っています。田植えが終わり、みんなが一息つくのです。
集落行事・タケノコ狩りが震災から約3ヶ月の時期に多くの集落でできたことは非常に重要な意味をもっています。私は震災復興の大きな目標、「復興できた」といえるメルクマールが、「みんなが集落の戻り、暮らせる」ことにあると考えています。どの集落も、今年のタケノコ狩りの行事に格別の思いを込められました。「みんなが集落に戻り、暮らす」ことの第一歩が実現されたのです。

青倉のタケノコ狩り(6月26日)
この時期のいま1つのメルクマールは、家に戻れない人が仮設住宅に入居できたことです。私自身、6月18日に仮設住宅に入居しました。私はいまでも、外出先から仮設住宅の自分の部屋に戻るとき、「家に帰る」とはなかなか口にできません。仮設は仮設であって、「わが家」ではないのです。しかし、ひとまず自分の日常生活の拠点が確保できたことの意味は大きかった。とくに直前まで避難所に留まらざるをえなかった人にとってはなおさらでしょう。集落毎の設置が実現されなかったことは残念ですが、仮設住宅入居で一段落がついたことはあきらかです。
さて、そのように落ち着くと、異常な緊張状態が弛み、疲れがドッと出てくるものです。私自身は7月末〜8月に体調を崩しましたが、ホッと一息ついて、体調の不調を感じた人は多いようです。

仮設住宅(8月1日)
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<復旧・復興の遅れへの焦りの現出>(9月〜)
夏が終わり、秋の気配が感じとられると同時に、豪雪の地・栄村では〈冬〉が迫ってきていることを強く意識し始めざるをえなくなります。仮設住宅では、除雪をどうするのかを具体的に検討しないと安心して秋の深まり−冬の接近を迎えられません。また、冬の道路除雪のことを考えると、道路の復旧が進んでいないことに苛立ちを覚えます。さらに、まだ稲刈りも済んではいませんが、田んぼについて「来年こそは田植えができるように、雪が来る前に田んぼの復旧工事が終えられるのか」も心配になってきます。
その一方で、家屋の解体だけは「11月末までに終わらせる」とのことで結論を出すことを迫られています。

なかなか直らない道路(青倉)(9月9日)
茅葺き民家が解体されてしまった(6月13日)
人びとの中に新たな焦燥感、心配が増大していることは否めない事実であると思います。いちばん大きな問題は、「村はどうなるのか?」をめぐって、長期の見通し(ビジョン)があきらかにされていないことにあります。
行政との協働が不可欠ですが、私たち一人一人が考え、発言し、むらの復興ビジョンをつくっていくことが急務になっていると思います。

みんなで議論を(復興ビジョン懇談会)(6月18日)



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むらたびは、体験イベントを通して栄村の〈むららしい暮らし〉や自然を満喫し、栄村の復興に繋げる新しい旅です。






