友達の尊敬するところ。
かっこいい作家さん。
話しているだけで心が穏やかになる人…
とても心惹かれる人達の、どこに心惹かれるか。
そんな事を考えていくと、いつもフワリと浮かび上がるのが「知的で、優しい」というあり方。
知的であることと、優しくあることは、深くつながっている。
きっと、つながっている。
そんな感覚はありましたが、どのような繋がりなのかまでは、クリアに出来ていませんでした。
そのことを考えている内に、すこし見えてきたので、今日はそんなお話をさせてください。
優しさへのあこがれ
そもそも「優しさ」という性質に、なぜ私は強く惹かれるのか。
それは単純にこどもの頃から今までの人生、ずっと生きづらかったからだろうな、と思います。
私はいじめられっこで、内向的で、友達も多くはありませんでした。
世界は常に刺激が強く、とにかくビクビクしている子供でした。
音、匂い、光、感情、表情、声のトーン…
様々なことにドキドキして、生活するだけで日々クタクタになる毎日。
「まわりのみんなは、どうしてこれが平気なんだろう?」
保育園で常々そう感じていました。
刺激を敏感に捉えるタイプの子だったのかもしれません。
寄り添ってくれる人がいることで、救われた
とにかく世界はハラハラして、怖い場所でした。
気にしないで済むなら、心から、そうなりたい。
自分だってみんなのように、ビクビクせず過ごしたい。
音も光も人の表情も、大量の情報が脳内になだれ込んできて、圧倒される毎日。
ただ、そんな場所でもただ一人でも優しい人がいると、心がフッと楽になるのです。
「考え過ぎ。」
「気にしすぎだ。」
「そんなんじゃ、生きていけないぞ。」
そう切り捨てずに、
「そう感じるんだね、怖いのなら、ゆっくりでも大丈夫だよ」
そう言って、寄り添ってくれる優しさ。
それは、世界は怖い所だと思っている、心細い自分にとって何よりの救いでした。
99人が「気にするな」と言う世界。
そこに1人でも「そう感じてるんだね」と、自分が感知した世界を、まるごと受け入れてくれる人がいるだけで、涙がでるほど嬉しかったのです。
優しさこそが、価値観の根っこになった。
「自分はまわりの人と違って、おかしいのかもしれない」
「自分はまわりの人と違って、ちゃんと生きていけないのかもしれない」
優しさに触れることで、そんな猛烈な恐怖から開放されるのです。
「優しいという事、心に寄り添うという事は、この世界で何よりも価値があるものだ。」
いつもビクビクしていて、優しさこそが救いだった、幼い頃の自分。
以来「優しくあること」が人生の価値観の根っ子になっていきました。
そして、優しい人は、明確な共通項があることに気づきました。
自分を救ってくれた人は、同い年の友達、年配の先生…、性別も年齢も様々でしたが、みな、知的である、ということ。
優しいことと、知的であること。
知的であること。
それはきっと、こんな力から成り立っているように思うのです。
それは、小さな変化に気づける、観察力。
それは、相手の立場に立ってものを考える、想像力。
それは、自分の感情や考えをメタ的に捉える、認知力。
それは、その人の心に最も響く言葉を生み出せる、表現力。
それは、心の苦しさの背後にある、大切なことを見抜く、洞察力。
その人のもてる知性をすべて使って、その先にフワリと舞い降りてくるのが、優しさなんだ。
そんな気がするのです。
優しくあるのは、むずかしい
生きものに、優しくありたい。
心細いだれかに、優しくありたい。
そう願う思う気持ちを持っているのに、優しくあるというのは、難しいことだと日々感じています。
自分の感情に飲み込まれて相手の心が見えなかったり。
背景や状況を理解できてなかったり。
理解が浅く、的はずれな事を言ってしまったり。
「もっと○○だったら、もっと優しくできるのに…、」
自分の感情のコントロールの未熟さや、知識の浅さゆえに、歯がゆい思いをする毎日。
そのたびに、自分に優しくしてくれた人が、どれだけ深い知性を発揮していたのかを実感します。
その優しさに感謝するとともに、やっぱり最高にカッコいいな、と憧れてやまないのです。
優しさを発揮するための、基盤
優しくしたい対象の、声や目の表情を観察して、心に触れて、とりまく環境を知り、真摯に向き合い、自分に何ができるか考える。
寄り添える力を、精一杯、発揮する。
優しさは、99の知性をもって、やっと1生まれでる、とても美しい結晶。
その人の人生で積み上げられてきた、知識・価値・気付き…。
すべての知性から生まれたエッセンスが、優しさなんだ。
そんな風に思うのです。
だからこそ、それに触れた時、人は感動してしまうのかもしれません。
優しくありたい、という泥臭い感情。
「知的で、優しい。」
そんな人になりたい、
もっと言えば、そんな絵でありたい。
そのために、何を学び、何を考え、何を表現したらいいんだろう。
自分に問いかけながら、ペンをとることが増えました。
それは高尚な理想ではなく、とても泥臭い気持ち。
「私のあの言葉を、相手はこう受け取ったんじゃないかな?」
「もっとよい言い方があっただろう、自分!」
「もっと優しくできたらいいのに!」
自分の考えの浅さと、ふいに出た言葉の軽さに「あああ」と叫びたくなるような。
恥ずかくて、地団駄を踏みたくなるような。
日常の中で繰り返されるどうしようもない感情です。
優しい自分になりたい、と願う気持ち
だから、現在の自分が、優しい人であるかどうかは、別のお話。
ただ、「知的で、優しい自分になりたい」と切望してしまう感情は、きっと本物。
そのぶん、自分の伸びしろなのかもしれない。
そう前向きにとらえようと、思ってます。
毎日繰り返す、泥臭い感情と、そこから生まれる学びが、ひとつひとつ、知性として積み上がていく。
その繰り返しの先に、優しさが発揮できる自分がいてほしい。
「自分は浅い」という、どうしようもない恥ずかしさは、生きていく限り付きまとうのかもしれません。
だったら、そんな感情とも友達になりつつ、少しずつ進んで行こうかな。
それしかないのかもな、と思っています。
そんな、小さな発見でした。