泉平という集落―栄村紹介
- 栄村の魅力・風景
- 2011.07.13 Wednesday
このレポートでは栄村の状況を色々と報告・紹介していますが、基本的に私一人で知ることができる範囲内でのレポートですので、紹介できる集落が限られています。前々からそのことが気になっているのですが、震災直後に比べると少しずつながらも時間的余裕ができてきていますので、これからは行動半径を広げ、これまで紹介・報告できていない集落のことも紹介していきたいと思います。今回は泉(いずみ)平(だいら)集落です。
今回の震災では、泉平は被害がかなり大きかった集落です。今回は被害の様相の報告ではないのですが、泉平集落がどんなところかをレポートしたいと思います。
箕作(みつくり)集落の公民館、お宮の前をぬけて県道をさらに走り続けると、道が2つに分かれます。まっすぐに行くと間もなく行き止まりになるのですが、表示板の「志賀高原」方面の方へむかう(進行方向左斜め)と、ずっと曲がりくねった山道が続きます。

上ってしばらくは箕作の人たちの田んぼが道沿いに見えますが、間もなくすると、ただ山の中を走るという感じになります。「うーん、これからは志賀高原までずっと山の中か」と思っても不思議ではありません。しかし、それにしては時々、むらの人のものと思われる車に出会うので「何だろう?」と思うかもしれません。じつは、この山道の先に泉平集落があるのです。
私は栄村に住んで5年目ですが、泉平には知り合いはほんの数人しかおられません。でも、震災前は泉平に足を運ぶことが比較的よくありました。村を訪ねて来る人に、「広い村内に集落が分散している」という状況を理解してもらううえで格好の場所だからです。
<集落入り口の素敵な林>
箕作から山を上っていって、泉平の集落に近づいたとき、真っ先に目に入るのがお宮の手前の林です。ブナの木も多く、私が好きなポイントの1つです。


<驚くほど広い田んぼ>
いまでもそうなのですが、初めて泉平を訪れたとき、田んぼの広さにたいへん驚きました。山の中を走ってきて、こんなに広い田んぼに出会うとはまったく想像できません。ご覧ください。

田んぼの先に林と山が見えますが、林の下はじつは千曲川の近くです(もう少し厳密にいうと、林の下には小箕作川があり、その先の小さな尾根の向こう側に千曲川が流れています)。そして奥に見える山は千曲川の対岸の関田山脈です。泉平は千曲川の河岸段丘で、千曲川からかなり高いところにある台地なのですね。
いま手元にはないのですが、数年前、むらのある集落のお宅から出てきた古文書を拝見したことがあります。それは大正12(1923)年の関東大震災の直後に中津川発電所工事のために朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者の行動記録でした。私の記憶によれば、桑名川まで鉄道(飯山線)で来た朝鮮人労務者が千曲川を渡し船で渡り、泉平に上陸し、その後、陸路(志久見街道です)を通って志久見−宮野原まで出たと書かれていました。
11日朝、泉平を訪れた私は、畑で作業していた集落の人に、「昔は千曲川から上がって来る道があったそうですが、今でもありますか?」と尋ねてみました。「おお、あったよ。今は人も通らないから、もう道じゃないけどな」と言って、その「道」があった方を指さして下さいました。

上の写真で林の手前に田んぼの畦道がかすかに見え、それが写真左手で林の切れ目に入っていっています。その先に千曲川の方へ下りる道があったようです。

田んぼの中を進み、千曲川上沿いの林の方から逆に眺めると、集落の様子がよく見えます。
<集落の奥は深い>
集落の中に入ると、山の方向にむかって道がずっと続きます。家並みのあるところをこえてさらに進むと、「こんなところまで畑があるの?!」と思うようなところにアスパラの畑があります。
泉平はもともとは専業農家の多いむらでした。いまでも、稲作以外にアスパラを栽培する人が多いようです。
<庚(かのえ)さま>

このアスパラ畑のところに行く前に、集落のはずれに近いところで、写真のような石像がたくさん並んでいるのに出会いました。
この前の家のおばあさんが畑に出ておられたので、声をかけて、「この石像は何ですか?」と尋ねたところ、「庚さまだよ」と答えて下さいました。
「庚さま」とは「庚申塚(こうしんづか)」のことです。庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支で、庚申の年というものがあり、60年に一度巡ってきます。最近は1980年がそうでした。青倉集落にも庚申塚あり、「庚申の年にお酒などを土中に埋めて、60年後に取り出して飲むんだ」と聞いたことがあります。
おばあさんによると、「庚申講というのがあって、それが世話をしていたが、最近はどうなったかな? 私も歳なので出なくなったので、よくわからない」とのことでした。
栄村は広いです。まだまだ未紹介のところがたくさんあります。おいおい、紹介していきます。
今回の震災では、泉平は被害がかなり大きかった集落です。今回は被害の様相の報告ではないのですが、泉平集落がどんなところかをレポートしたいと思います。
箕作(みつくり)集落の公民館、お宮の前をぬけて県道をさらに走り続けると、道が2つに分かれます。まっすぐに行くと間もなく行き止まりになるのですが、表示板の「志賀高原」方面の方へむかう(進行方向左斜め)と、ずっと曲がりくねった山道が続きます。

上ってしばらくは箕作の人たちの田んぼが道沿いに見えますが、間もなくすると、ただ山の中を走るという感じになります。「うーん、これからは志賀高原までずっと山の中か」と思っても不思議ではありません。しかし、それにしては時々、むらの人のものと思われる車に出会うので「何だろう?」と思うかもしれません。じつは、この山道の先に泉平集落があるのです。
私は栄村に住んで5年目ですが、泉平には知り合いはほんの数人しかおられません。でも、震災前は泉平に足を運ぶことが比較的よくありました。村を訪ねて来る人に、「広い村内に集落が分散している」という状況を理解してもらううえで格好の場所だからです。
<集落入り口の素敵な林>
箕作から山を上っていって、泉平の集落に近づいたとき、真っ先に目に入るのがお宮の手前の林です。ブナの木も多く、私が好きなポイントの1つです。


<驚くほど広い田んぼ>
いまでもそうなのですが、初めて泉平を訪れたとき、田んぼの広さにたいへん驚きました。山の中を走ってきて、こんなに広い田んぼに出会うとはまったく想像できません。ご覧ください。

田んぼの先に林と山が見えますが、林の下はじつは千曲川の近くです(もう少し厳密にいうと、林の下には小箕作川があり、その先の小さな尾根の向こう側に千曲川が流れています)。そして奥に見える山は千曲川の対岸の関田山脈です。泉平は千曲川の河岸段丘で、千曲川からかなり高いところにある台地なのですね。
いま手元にはないのですが、数年前、むらのある集落のお宅から出てきた古文書を拝見したことがあります。それは大正12(1923)年の関東大震災の直後に中津川発電所工事のために朝鮮半島から動員された朝鮮人労務者の行動記録でした。私の記憶によれば、桑名川まで鉄道(飯山線)で来た朝鮮人労務者が千曲川を渡し船で渡り、泉平に上陸し、その後、陸路(志久見街道です)を通って志久見−宮野原まで出たと書かれていました。
11日朝、泉平を訪れた私は、畑で作業していた集落の人に、「昔は千曲川から上がって来る道があったそうですが、今でもありますか?」と尋ねてみました。「おお、あったよ。今は人も通らないから、もう道じゃないけどな」と言って、その「道」があった方を指さして下さいました。

上の写真で林の手前に田んぼの畦道がかすかに見え、それが写真左手で林の切れ目に入っていっています。その先に千曲川の方へ下りる道があったようです。

田んぼの中を進み、千曲川上沿いの林の方から逆に眺めると、集落の様子がよく見えます。
<集落の奥は深い>

集落の中に入ると、山の方向にむかって道がずっと続きます。家並みのあるところをこえてさらに進むと、「こんなところまで畑があるの?!」と思うようなところにアスパラの畑があります。
泉平はもともとは専業農家の多いむらでした。いまでも、稲作以外にアスパラを栽培する人が多いようです。
<庚(かのえ)さま>

このアスパラ畑のところに行く前に、集落のはずれに近いところで、写真のような石像がたくさん並んでいるのに出会いました。
この前の家のおばあさんが畑に出ておられたので、声をかけて、「この石像は何ですか?」と尋ねたところ、「庚さまだよ」と答えて下さいました。
「庚さま」とは「庚申塚(こうしんづか)」のことです。庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支で、庚申の年というものがあり、60年に一度巡ってきます。最近は1980年がそうでした。青倉集落にも庚申塚あり、「庚申の年にお酒などを土中に埋めて、60年後に取り出して飲むんだ」と聞いたことがあります。
おばあさんによると、「庚申講というのがあって、それが世話をしていたが、最近はどうなったかな? 私も歳なので出なくなったので、よくわからない」とのことでした。
栄村は広いです。まだまだ未紹介のところがたくさんあります。おいおい、紹介していきます。



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